Na4Ir3O8

 私の博士論文はCo、Rh、Ir酸化物の3部作で構成されているのだが、Irのパートを担うのがこのNa4Ir3O8である。世間では「ハイパーカゴメ」という名で通り、色々と物議をかもした怪しげなフラストレート磁性体だ。この物質が本当に面白いのか、それとも実はつまらないのか、未だに私にもつかみかねている部分がある。けれど、これを判断するためには相当高度な物理と化学両方の知識が必要だろうということも分かってきた。私がNa4Ir3O8の物性を本当に理解できるようになるにはかなりの時間が必要だろう。そもそも、私がこの物質に目を付けたのは、NaxCoO2の水和物超伝導からの連想である。当時D1だった私には、NaxCoO2のNaイオンをソフト化学的な手法で出し入れすることでCoの価数を制御し、さらに結晶水をインターカレートして超伝導にしてしまうというのは非常にセンセーショナルに感じられた。そこで、他の物質でも同じようなことができるのではないだろうかと思い、遷移金属ー酸素のネットワークの間にNaイオンが含まれている物質をデータベースから徹底的に洗い出した。その結果、Na2O-IrO2の擬二元系の相図を作成したMcDanielの論文に辿り着いた[1]。この文献に報告されている2つのNaIr複酸化物のうち一つがNa4Ir3O8である。ちなみにもう一つはハニカムのNa2IrO3だ。しかしMcDanielの実験では単相試料を得ることはできなかったようで、構造解析はなされていない。結晶構造に関してはa = 8.985 Åの格子定数をもつ単純格子の立方晶であることだけが記されている。しかし、この格子定数で単純立方という点は見過ごせないポイントである。例えばスピネルやパイロクロアは面心立方だし、KSbO3の関連物質であれば体心立方だ。そこでとりあえずストックしておいたのだが、その後偶然に同じ組成式をもつNa4Sn3O8の論文を見つけたので読んでみると、答えが書いてあった[2]。

図1. Na4Ir3O8の結晶構造. 青、黄、赤の球はそれぞれIr、Na、O原子の位置を表す. (a)にはNaの一部とIr、O原子の位置が、(b)にはNaの一部とIr原子が示されている。(b)にはIrのハイパーカゴメ格子が水色の実線で描かれている。

 図1にNa4Ir3O8の結晶構造を示した。いくつかの見方があるが、多分秩序スピネルとして眺めるのが最も理解しやすいだろう。スピネルAB2O4のBサイトは正四面体が連なったパイロクロア格子を組むが、各四面体のうち3つのサイトをIrで、残りの1つのサイトをNaで秩序して配置し、さらにAサイトに適当にNaを配置するとNa4Ir3O8の結晶構造になる。Bサイトの3 : 1の秩序占有の結果、空間群はFd-3mからP4132(またはP4332)に低下する。Ir原子だけを繋ぐと、正三角形が頂点を共有して三次元的に連なった格子となる。この格子は名無しだったが、Ramirezのレビュー[3]にそういう格子はhyperkagomeというのだと書いてあったので安直にそう呼ぶことにした。Irは酸素に八面体配位され形式価数は4+なので電子配置は低スピンのd5である。局在すると量子スピンが幾何学的にフラストレートする系になりそうだが、当時の私は5d遷移金属酸化物は普通は磁性体にならないという知識をもちあわせていなかったので、もしかしたらフラストレート磁性体として面白いかもしれないと真面目に考え合成することにした。 

図2. Na4Ir3O8多結晶試料の1 Tの磁場中で測定した磁化率(左, 水色)とその逆数(右, 桃色)の温度依存性.

 試料合成は、Na2CO3とIrO2を原料として固相反応法により行った。IrO2が不純物として試料中に残りやすくなかなか単相試料が得られなかったが、最終的にNaとIrの比を4.2 : 3として、750°Cで18 h仮焼したのち1020°Cで焼成しさらにクエンチすることで単相試料を得ることができた。得られた単相試料の磁化率と逆帯磁率の温度依存性を図2に示した。磁化率は温度を下げるとだらだらと増加する。これをCurie-Weiss的と見るべきかどうかは微妙だが、何も考えずに逆数をとると100 K以上で直線になる。その部分をCurie-Weissフィットすると、-600 Kを越える大きな負のWeiss温度と、スピン1/2でちょうどよさそうなIr原子1個当たりの有効磁気モーメントが得られる。Ir4+の電子配置は低スピンの5d5なのでいかにも5d電子が局在スピンとして振る舞っているように思える。ちなみに電気抵抗率は半導体的である。とするとその局在スピン間には強い反強磁性相互作用が働いていることになる。しかし温度を下げても少なくとも0.4 Kまでスピンの長距離秩序による異常は現れない。但し7 K以下で小さくて本質的でなさそうなスピングラス的な振る舞いが現れる。ということはもしかしたらこの物質はスピン液体の基底状態をとる候補物質なのかもしれないということで、このポイントにフォーカスして論文5をまとめることができた。
 けれど、スピン液体の切り口はこの物質の全てではない。例えば、粉末試料をヨウ素アセトニトリル溶液に浸すか、300°C程度で酸素アニールすると磁化率がPauli常磁性的な温度依存性に変わり、同時に金属的な電気伝導を示すようになる。おそらく前者はヨウ素の酸化反応によりNaが脱離し、後者は過剰酸素が入ることによりIrの価数が4+からずれたのだろう。前者のような化学反応は、この物質において当初目的としていたことである。残念ながら現時点では超伝導などの遍歴電子による興味深い物性は現れていないが、今後に期待したいと思う。

[参考文献] [1] C. L. McDaniel, J. Solid State Chem. 9, 139 (1974). [2] M. Iwasaki et al., J. Mater. Chem. 12, 1068 (2002). [3] A. P. Ramirez, Handbook on Magn. Mater. 13, 423 (2001).

[発表] 論文5, 国際会議5,6,7, 国内学会9,10, 科研費研究会1,2,3.

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